吉美は、古くは「君ケ浜村」といわれ、中世から
近世にかけての古文書「安積家文書」は有名
です。
跳橋構造式 大吉橋跡 記念碑
吉美村と大江島村を結ぶ大吉橋は、昭和七年
八月、橋の東半分を手動ウィンチで巻き上げる
跳橋としてかけられました。当時は、吉美村、
平松村、大江島村の帆船や高瀬舟が、大津茂
川をよく行き来していました。これらの船が、通
行するたびに合図を交わして橋を巻き上げたこ
の形式の橋は、姫路や播磨地方では、ここだけ
でした。昭和二十七年に新しい橋をかけるため
に取り壊されました。
林田藩船奉行所 御茶室 藩蔵屋敷跡地
吉美村には、林田藩の建部家が、元和三年から
明治維新まで所領していました。ここには、藩船
奉行所、殿様御茶室、藩蔵屋敷がありました。
林田川、揖保川、網干川を迂回している高瀬舟が
年貢米などを運び、吉美廻船が、大坂、九州など
へ回船しました。明治六年、船奉行所跡地に吉美
吉渚小学校を開き、八年から二十四年十月まで
津川小学校を開き、吉美、平松、大江島の児童が
学びました。
この船錨は、安政三年に造船された松吉丸の船錨です。
吉美蔵屋敷から大坂の林田藩蔵屋敷まで年貢米などを
運んでいました。明治十五年の台風で破船してしまいま
したが、人命は救助されました。これは八幡神のおかげ
と感謝し、錨を海から引き上げ八幡神社に奉納され、拝
殿内に安置されたと古船頭から伝承されています。
明治七年(1874年)頃の
吉美村の小字地名を絵図
にしたものです。
天保十三年(1842年)龍野藩主の脇坂淡路守は、幕府の命令を受けて飾西郡則直村の三木勘兵衛に干拓を命じました。勘兵衛は、翌年に工事を開始し弘化元年(1844年)に潮止めに成功し、嘉永二年(1849年)稲黍の試作、七年(1854年)に本検地が行われました。ここから東に延びる堤防は、旧東汐入川の西岸まで築かれました。
三木勘兵衛の長男の官次が弟の元三郎とともに
干拓の仕事を引き継ぎました。
安政四年(1857年)の暴風で大手囲堤がほとん
ど崩壊しましたが、翌五年には、完全に修復され
ました。文久元年(1861年)約六十町歩の頑丈
な石垣堤防囲の前新田が完成しました。
昭和十二年(1937年)日本製鐵広畑製鐵所(現在の新日本製鐵)の建設に伴って、東汐
入川の付け替え工事が行われました。その際、前新田の約五分の三を埋め立て、残りは、
昭和五十一年(1976年)以降、大和工業株式会社が所有しています。
三木勘兵衛(官次)のこのりっぱな仕事を称えてこの石碑が建てられました。
三木勘兵衛親子によって開墾された勘兵衛一帯に
新しい村の鎮守として建立されました。
安政元年(1854年)に三重県渡来郡、あるいは則
直村の日吉神社より分霊を勧進されたと伝えられて
いますが、はっきりしたことはわかりません。
春祭りが5月、秋の祭礼が10月に行われています。
勘兵衛新田ができたときに、ここから300メートル南に大門扉を設けて潮止めし、300メートル北に井堰を設けて灌漑に利用していました。
昭和十二年(1937年)日本製鐵広畑製鐵所(現 新日本製鐵)が誘致されたため、汐入川は西に大きく迂回することになり、下手の大門扉は取り壊され、上手の井堰は、コンクリート化されました。
昭和四九年(1974年)、ここに鉄筋コンクリートのポンプ場が建設されることになり、上手の井堰も取り壊されました。
同境内には、開発者を祠る勘兵衛神社があります。
現在の社殿は、平成六年(1994年)に再建されたも
のです。
君浦由来記
吉美村船溜港跡地
(君ケ浜公園内)
力 石
(若宮八幡宮内)
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