学校長あいさつ

 

 

   本校は、北に「別所山(べっしょやま)」と西方に連なる「鬢櫛山(びんぐしやま)」、西に「籾取山(もみとりやま)」、南に「西山」に囲まれた「別所谷(べっしょのたに)」と呼ばれる地にあります。東側には大井川が南に流れ「省己橋」を渡って校地に至ります。大井川は川幅が狭く「狭河(せいこ)」と呼ばれていたようで、学校前の橋に相応しく「論語」の「われ日に三たび、わが身=己(おのれ)を省みる」にちなみ「省己(せいこ)橋」とされました。
 別所谷は江戸時代に姫路藩主が鷹狩りを予定しましたが、鬱蒼としていたので取りやめになっています。明治維新後、江戸姫路藩邸から撤収してきた人々が中・下グランド付近に屋敷を構え、藩邸に祀られていた三崎稲荷大明神(みさきいなりだいみょうじん)をテニスコート付近に祀ったことから谷が開けたと聞き及びます。大正9年(1920)この地は兵庫県立種畜場となり人々も他所に移転、三崎稲荷大明神も現在地(校門前北側)に遷されました。当地に本校が移転したのは昭和44年(1969)のことです。
 さて、本校の淵源は大正2年(1913)4月、本町の姫路神社附属建物に設置された姫路市立実科女学校(じっかじょがっこう)であり、大正14年(1925)姫路市立高等女学校として認可され大蔵前に移転、昭和12年(1937)今宿車崎(現南車崎六丁目)に移転、戦後、昭和21年(1946)姫路市立第一高等女学校、次いで昭和23年(1948)学制改革とともに現校名に変更しました。「琴丘(ことがおか)」の名称の由来は、奈良時代に編纂(へんさん)された「播磨国風土記(はりまのくみふどき)」飾磨郡伊和里(しかまのこおり いわのさと)条に記される十四丘の一つ「琴神丘(ことがみのおか)」が今宿車崎校地北の薬師山に推定されていたことによるとみられます。
また、昭和27年(1952)にはフランス文学者で早稲田大学教授の西條八十(さいじょうやそ)作詞、古賀政男作曲による新校歌が完成、昭和37年(1962)には「中庸(ちゅうよう)」の「誠は天の道なり」と「真実」から「誠実」、人としてあるべき「勤勉」と「友愛」の三語を校訓として定めています。
毎日通う学校の歴史的足跡のほんの一端を記しましたが、その時、そこで生き、生活していた人々の思いや姿を想像することは難しく、今の自分の真の姿を知り世界を想像することも難しく、まして未来を想像することは尚更難しいことです。確かに過去の足跡(歴史)にたち、確かに今を生き、確かに不安という未来へ向かっていくためには、読書と学びによる知識、さまざまな活動経験から、豊かな「想像力」を培っていただくことではないかと思っています。
   

                 平成30年4月  23代校長 宇那木 隆司
 

 

 琴丘高等学校の特色 

 

 本校は普通教育を行う普通科1学年6クラスと専門教育を行う国際文化科1学年1クラスを設置しています。
普通教育は2年生から文系・理系クラスに分け、3年生では文系クラスをさらに理数科目を多く配置した文Ⅰ系と、自由選択科目を配置した文Ⅱ系に分けています。四年制大学はもとより多様な進路を実現できるよう教育課程(教科科目の配置)に工夫を凝らしています。
専門教育は普通教育の1,7倍の英語を配置し、ESL資格をもつ外国人常勤講師2名のスタッフによる少人数授業、メディアイングリッシュや文化研究などの専門科目や第二外国語(スペイン語・韓国語から選択)の配置、グローバルレクチャーという特別講義も実施しています。